Shuichiro Ogawa
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ノート · updated 2026-10-07

データ可視化は、効率から離れたときに何を見せるのか:数値にしない全体、決まらない見方、意図した抽象

データ可視化の価値を、速さ、正確さ、行動の変化、利用者数という最適化の物差しで測った前回までの整理から離れ、数値にせずに全体を見ること、見方が決まらないことで別の切り口が開くこと、あえて抽象化して局所最適な見方を避けること、の意義を、学術研究(可視化研究、HCI のデザイン理論、データの社会学、監査の人類学)と、データを図にする作り手の発言から整理した。

目次(8)
  1. 物差しそのものが、ひとつの価値の選択だった
  2. 数値にせずに、全体が見える
  3. 見方が決まらないから、別の切り口が開く
  4. あえて抽象化して、局所最適な見方を避ける
  5. 数字の外にある、感じることと人
  6. 離れることの危うさ
  7. なぜ、離れることに意義があるのか
  8. この整理が当てはまらないところ

物差しそのものが、ひとつの価値の選択だった

前の二つのノート(データビジュアライゼーションは産業でどんな価値を持つのか:市場の値付け、価値が生まれる場所、生成 AI 以後(産業界の資料から) と データを図で示すことの価値はどこにあるのか:価値の種類と、なぜ効くのか(産業界の資料から))は、データ可視化の価値を、どれだけ速く、正しく読まれ、行動を変え、多くの人に使われたかで測った。 その物差しで見ると、図の価値は「見る人の計算を肩代わりすること」に行き着く。 しかし、この物差しは可視化の価値を測る唯一の物差しなのだろうか。

可視化研究の中で、価値を効率で測る考え方には出どころがある。 van Wijk は 2005 年、可視化の価値を効果と効率で測る技術的な見方を採り、知識の増分と費用で価値を表す経済モデルを示した(van Wijk 2005)。 同じ論文は、可視化を芸術として見る見方と科学として見る見方も並べて論じている。 Stasko は 2014 年、決まった課題を解かせて速さと正しさを比べる評価だけでは可視化を評価するのに足りないとし、データの本質を伝えることや洞察のある問いを生むことを価値に挙げた(Stasko 2014)。

正典そのものに埋め込まれた価値を問う批判もある。 Saharan らは 2026 年の論文(未査読のプレプリント)で、Bertin、Tukey、Wilkinson、Ware、Munzner の正典を読み、そこに普遍性、客観性、効率という価値が優先されていると論じ、可視化の道具と指針を形づくる価値をもっと多元的にするよう求めた(Saharan et al. 2026)。 Dörk らも 2013 年に、研究共同体は価値と前提が情報可視化にどう浸透しているかを十分に考えてこなかったと書き、自分の分野に埋め込まれた価値と前提に自覚的であることを「批判的」と呼んだ(Dörk et al. 2013)。

効率は中立の基準ではなく、科学と工学の伝統から来たひとつの価値である。 そうであれば、効率から離れることの意義を、効率とは別の言葉で問うことができる。

数値にせずに、全体が見える

個々の値を正確に読み取れるかという物差しは、図の一つの使い方しか測っていない。 Bertini、Correll、Franconeri は、位置の知覚が最も正確だという知見から「すべての図は散布図でよい」とする論法を取り上げ、個々のデータの値を知覚的に正確に符号化し読み取ることを超えた広い見方を取り、「非効率な」可視化を擁護した(Bertini et al. 2020)。 論文は、例に挙げた図の中で最も気に入った全体像の図は、個々の値の比を読み取る精度では最下位のヒートマップだったと書いている。

視覚には、値を一つずつ読まずに分布の全体をつかむ働きがある。 Szafir らの要旨は、視覚のアンサンブル符号化は散らばった視覚情報の統計を速く取り出す働きで、データの図は見る人がこの働きを使ってデータの実際の統計を見積もることを可能にすると述べる(Szafir et al. 2016)。 個々の値の読み取りと全体の把握は、別の知覚の過程である。

作り手の側でも、数字を消して全体を見せた例がある。 気候のストライプを作った Ed Hawkins は、この経験から学んだのは、メッセージを伝えるのに数字は要らず、色がそれをするということだと BBC に語った(Eco-Business 2019)。 数字を図に残すと、見る人は値を一つずつ読む方へ誘われる。 数字を消すことは、読み取りの精度を手放す代わりに、見る人の目を全体のかたちに向けさせる選択である。

見方が決まらないから、別の切り口が開く

HCI は長く、曖昧さを取り除くべきものとしてきた。 Gaver、Beaver、Benford の要旨は、曖昧さは HCI ではふつう忌み嫌われるが、システムとの近い個人的な関与を促す設計の資源になると論じる(Gaver et al. 2003)。 曖昧さは、情報そのもの、解釈に使う社会文化の文脈、個人の解釈と評価の構えの三つの場所に生じるとして、それぞれを強める手立てを挙げている。

見慣れたものを見慣れなくすることも、切り口を開く。 Bell、Blythe、Sengers の要旨は、家庭はあまりに見慣れているので、設計の余地を開くには家庭を見慣れないものにする(異化する)必要があると論じ、家電には家事の性別による分担のような見過ごしやすい文化の連想が積み込まれていると書く(Bell et al. 2005)。 図の見方が決まっていないとき、見る人は慣れた分類に当てはめられず、前提そのものに目が向く。

探していなかったものとの出会いも、効率の物差しの外にある。 Thudt、Hinrichs、Carpendale は、セレンディピティは情報を探す過程、研究、発想で見過ごされてきたが重要な要因だとし、それを情報可視化の目標に据えた(Thudt et al. 2011)。 図書の集まりを抽象的で隠喩的で視覚的に異なる表現で見せて好奇心を誘い、本と本の別の隣り合いを示すことで、探していなかった本との出会いを支えた。

読みにくさも、価値を生むことがある。 Hullman、Adar、Shah は、効率に基づく設計理論への対案として、視覚的な難しさが理解と記憶を助ける条件を整理し、良い図の設計を効率と学習の難しさの間のトレードオフとして捉えた(Hullman et al. 2011)。 難しさが適するかどうかは、能動的な処理と関与という要因で決まるとしている。

作り手も、見る人に努力と疑いを求めることがある。 データのデザイナー Nadieh Bremer は、自分は少し努力して読む複雑な図を作り、そのぶん最後に多くの情報が得られるようにしていると語った(Rakotondravony and Forrest 2019)。 データジャーナリストの Mona Chalabi は、手描きの図を作る目的の一つは、見た人に目の前の図を疑ってもらうことで、データには高い不精確さがあるからだと語り、どの統計も、真実はその数の周りの幅のどこかにあると述べた(Al Jazeera 2019)。 情報デザイナーの Federica Fragapane は、作品の美しさに手をかけることは人を招き入れ、近くで見て、データで伝えたい物語を読んでもらう方法だと語った(designboom 2025)。

あえて抽象化して、局所最適な見方を避ける

数値の指標は、それ自体が最適化の対象になりやすい。 人類学者の Strathern は英国の大学の監査を論じ、指標が目標になると良い指標でなくなると書き、試験の成績が期待になるほど個々の遂行を見分ける力が落ちると述べた(Strathern 1997)。 ダッシュボードに指標の数字を並べることは、その数字を目標にすることと隣り合っている。

一つの見方を磨き続けることにも、落とし穴がある。 Dow らは設計の実験で、反復は案を良くするが、ほかの案を考えずに一つの案を磨き続ける固着も生むと書き、複数の試作を並行して作るほうが成果が高く、案が多様になったと報告した(Dow et al. 2010)。 これは広告のデザインの実験で、可視化の研究ではない。 それでも、一つの指標の図を見続けることが一つの案を磨き続けることに似ているなら、抽象化して複数の読み方を開いておくことは、並行して案を持つことに近い働きをすると考えられる。

抽象の水準の選び方は、可視化の設計で最も上流の判断である。 Munzner は可視化の設計を、領域の課題、データと操作の抽象、符号化と相互作用、アルゴリズムの四つの層に分け、上流の誤りは必ず下流のすべての層に連鎖すると書いた(Munzner 2009)。 何を見せるかの抽象を選び直すことは、その下でどれだけ符号化を磨いても届かない見方を開く。

作り手は、抽象化を効率以外の目的に使ってきた。 Giorgia Lupi と Stefanie Posavec は、手描きのはがきでデータを交わした Dear Data を、自己計測の企画ではなく個人の記録として構想し、データを効率を上げるためだけに使うのではなく、より人間らしくなり、自分や他人とより深くつながるために使えると書いた(Lupi and Posavec n.d.)。 二人は、データにはもっと遅く、アナログなやり方で向き合いたいとしている。 Lupi は、データは決して中立ではなく、選択と視点と人の決定によって作られた現実の抽象だと語っている(German Design Council n.d.)。 デザイナーの Moritz Stefaner は、真実と美は同じだけ大事で、片方だけなら仕事は終わっていないと語り、退屈なデータを派手な見た目で膨らませることは嫌いだとした(Stefaner 2014)。 アーティストの池田亮司は、科学者は自分の作品をすぐに理解し、美しいが何も意味していないと言うと語り、解釈は批評家の仕事だとした(McCallum 2011)。 池田の作品は、抽象化を意味の固定から切り離す極端な例である。

このサイトの /network の作品も、データを主役にしたまま抽象のかたちで描くことを試みている(この wiki の引用ネットワーク:note をハイパーエッジとみなした分析と作品、ネットワークをデータアートとして描く方法:配置、束ね、時間、流れの文献)。

数字の外にある、感じることと人

効率の物差しは、データと人の関わりの一部しか捉えない。 Kennedy と Hill は、データとその可視化への日常の関与を調べ、感情はデータの意味を理解するうえで欠かせない要素で、データ化の時代に大事なのは数字だけでなく数字の感じ方だと論じた(Kennedy and Hill 2018)。 Kennedy らは、可視化との関与に影響する要因として、主題、出どころと媒体、信念と意見、時間、感情、自信と技能の六つを挙げ、可視化の有効性の定義は、誰が、どこで、何のために出会うかで変わるとした(Kennedy et al. 2016)。

数字の向こうには、人がいる。 データアーティストの Jer Thorp は、数字はただの数字ではなく、どれも現実の何かにつながっていて、それはしばしば人だと気づいたと語った(Scola 2021)。

離れることの危うさ

効率から離れた図は、誤って読まれることもある。 Padilla らのハリケーンの予報の実験では、不確実性を要約して示す図の目立つ特徴が、大きさの情報と誤解されうることが示された(Padilla et al. 2017)。 多くの予報の線をそのまま重ねるアンサンブルの図は分布の理解に向いたが、一点について判断させると、個々の線を重く見すぎることがあった。

抽象は、選び方を誤れば救えない。 Munzner の四層の考え方では、誤った抽象(見せるべきでないものを見せている)は、下流の符号化をどれだけ洗練させても直らない(Munzner 2009)。

探索の自由は、推論の誤りとも隣り合う。 Hullman と Gelman は、探索を他の分析の段階より重んじる設計の思想は、柔軟さの必要を「探索的な視覚分析は本質的にモデルを持たない」という結論と取り違える恐れがあり、統計的な推論の理論の裏づけを欠くと、妥当な推論を妨げる不確実性の表現につながると論じた(Hullman and Gelman 2021)。

曖昧さは、明瞭さと引き換えになる。 Aoki と Woodruff の要旨は、対面の社会的なやりとりの研究では曖昧さが社会的な難しさを解く資源とされるとし、個人向けの通信システムの二つの設計事例を論じている(Aoki and Woodruff 2005)。

抽象化は、人から切り離す行為にもなる。 Thorp は、データの収集という穏やかな言葉の裏で、個人からデータを削り取り、抽象化し、採掘していると述べ、データを人の文脈に置くことで意味が生まれると語った(Cannon 2019)。 Thorp は、データの仕事の魅力の一つは人と話さなくてよいことだとも語っている(Scola 2021)。 抽象化の価値と、抽象化が人を見えなくする危うさは、同じ操作の両面である。

作り手は、離れ方に歯止めをかけている。 Chalabi は手描きの図を、デジタルで作った図と画素単位で重なるよう直し、どのコンピュータの図とも同じだけ正確にしていると語った(Hahn 2023)。 Stefaner は、作り手は人々の世界観を形づくる世界の見え方を作っているので、可視化の「どう」と「何を」の両方を批判的に問い続ける必要があると述べた(Stefaner 2014)。

なぜ、離れることに意義があるのか

ここまでの文献から、二つの仮説を立てられる。 どちらも直接に測った研究はなく、複数の研究と実践が同じ向きを指している段階である。

一つめに、効率の物差しは問いが決まっている場面のもので、問いが決まっていない場面では、図は答えを速く渡す道具ではなく、問いを生む場になる。 速さと正しさで比べる評価は、見る人が何を知りたいかが先に決まっていることを前提にしている。 Stasko が評価に足りないとした、データの本質を伝えることや洞察のある問いを生むことは(Stasko 2014)、問いがまだ決まっていない場面の価値である。 Bertini らの全体像(Bertini et al. 2020)、Thudt らのセレンディピティ(Thudt et al. 2011)、Gaver らの曖昧さ(Gaver et al. 2003)は、どれも見る人が問いを持ち込む余地を残すことで価値を生んでいる。 指標が目標になると良い指標でなくなるという Strathern の指摘(Strathern 1997)は、問いを一つの数字に固定することの代償を示している。 この仮説が誤りなのは、問いが決まっていない探索の場面でも、決まった課題で効率の高い図のほうが、新しい問いや発見をより多く生む場合である。

二つめに、効率から離れることの価値は、作り手が離れ方を設計したときに限って生まれる。 Hullman らは、視覚的な難しさが役立つ条件を能動的な処理と関与に求め、無条件に難しくすることを勧めてはいない(Hullman et al. 2011)。 Chalabi は手描きでも正確さを保ち(Hahn 2023)、Hawkins は数字を消しても色の並びは気温のデータに従わせている(Eco-Business 2019)。 一方で、要約の図の目立つ特徴は意図と違う量として読まれ(Padilla et al. 2017)、誤った抽象は救えない(Munzner 2009)。 数値を消す、見方を決めない、抽象化するという操作は、正確さと誤読の境を作り手が引いたときに、新しい見方を開く。 引かずに離れれば、ただの誤解か飾りになる。 この仮説が誤りなのは、作り手が離れ方を設計しない図(無作為に抽象化した図、正確さを保たない図)でも、同じように新しい見方が生まれる場合である。

この整理が当てはまらないところ

効率から離れることの価値を、効率とは別の物差しで測った実証研究は少ない。 Hullman ら 2011 は先行研究の統合で、Dow ら 2010 の発散の効果は広告のクリック率と専門家の評価という成果の物差しで測られている。 Bertini ら 2020、Saharan ら 2026、Dörk ら 2013 は論考で、Saharan ら 2026 は未査読である。 Gaver ら 2003、Bell ら 2005、Szafir ら 2016 は本文を取得できず、要旨の範囲で使った。 Sengers と Gaver 2006 の「解釈に開かれた設計」、D’Ignazio と Klein の『Data Feminism』、Bertin の読みの水準、Tukey の探索的データ解析の原典は、本文に届かず使っていない。 作り手の発言は、インタビューや記事の中の言葉で、作り手が自分の作品を説明する立場からのものである。

関連ノート

参照文献


書いた人:小川 修一郎(Design Researcher / Consultant) 経歴を見る →