Shuichiro Ogawa
English

ノート · updated 2026-09-22

データビジュアライゼーションとデータアートは何が同じで、何が違うのか

同じ折れ線グラフでも、新聞に載れば「正確に読ませる図」、美術館にかかれば「データアート」と呼ばれる。両者はデータ、視覚変数、作り手、発表の場を共有しており、素材や道具では区別できない。

目次(9)
  1. 素材と道具と作り手は同じ
  2. 「可視化は正確、アートは美」は実証と合わない
  3. 違いは、読者に一つの読みを要求するかどうか
  4. 二択ではなく、両極のある連続体である
  5. 客観的に判別できるのか
  6. 客観的に決められるのは「どちらとして扱われたか」
  7. 三つの層で見分ける
  8. 見分けが要る場面と、要らない場面
  9. まだ分かっていないこと

同じ折れ線グラフがある。 新聞に載れば「グラフ」と呼ばれ、美術館の壁にかかれば「データアート」と呼ばれる。

呼び名が変わると、評価の言葉も変わる。 新聞のグラフは「わかりやすい」「正確だ」と褒められ、読み違えれば「誤解を招く」と叱られる。 美術館の作品は「美しい」「考えさせられる」と評され、わかりにくさは欠点とされない。

図の形はほとんど同じである。 それなのに、何が良くて何が失敗なのかが入れ替わる。 何が同じで、何が違うのか。そして、その違いは外から見て決められるのか。

素材と道具と作り手は同じ

最初に、区別できない部分を確認しておく。 データビジュアライゼーション(以下、可視化)とデータアートは、少なくとも四つの面で重なっている。

第一に、素材が同じである。 どちらも数値の集まりを材料にする。 Viégas と Wattenberg は、芸術としてのデータ可視化の条件を「アーティストがアートを作る意図で行ったデータの可視化」とし、さらに「可視化の見た目や比喩を真似ただけではなく、実際のデータに基づくこと」を要求した。 データを使っていない作品は、この定義では最初から外れる。

第二に、視覚への写像の道具が同じである。 Bertin は図を記号の体系として扱い、位置、形、向き、色相、テクスチャ、明度、サイズという七つの視覚変数を整理した。 可視化もデータアートも、この同じ変数の組を使ってデータを視覚に置き換える。

第三に、作り手と道具が重なる。 同じ人物が両方を作り、同じ描画ライブラリを使う。 職能として分かれているわけではない。

第四に、発表の場も重なる。 可視化の国際会議 IEEE VIS には VISAP というアート部門が併設され、審査を通った作品が会議と並んで展示される。

歴史も共有している。 1920年代に Otto Neurath と Gerd Arntz が作った ISOTYPE は、統計を絵で見せて教育に使う試みだった。 Jansen はその系譜をたどり、ISOTYPE が後半20世紀に統計グラフィックスの領域では影響を失い、芸術とデザインの領域に残ったと記録している。 統計図の道具立てが、そのまま芸術の側へ渡っている。

「可視化は正確、アートは美」は実証と合わない

ここで、よく言われる区別を一度退けておく。 可視化は正確さの領域、アートは美の領域だという分け方である。 この分け方は両側で破れる。

可視化の側から見る。 Lisnic らは COVID-19 に関する可視化ツイート10,000件を分析し、解釈を伴う投稿の84%が誤導的だったと報告した。 しかし、よく知られた設計ガイドラインに違反していたのは11%だけで、視覚的なトリックによる誤読は1%未満だった。 誤導の主因は推論の誤り(都合のよい期間だけを切り出す、閾値を恣意的に決める、相関から因果を読む)である。 規範に従っていれば正しい図になる、という前提は成り立たない。

可視化には説得の技術も入っている。 Hullman と Diakopoulos は、データ、表現、注釈、インタラクションの各層で何かを足し、何かを省く操作が特定の解釈を優先させることを整理した。 彼らはこれを可視化の修辞と呼ぶ。 可視化は中立な伝達ではない。

アートの側も同じである。 Offenhuber は、物質的な痕跡や環境の指標から現象とデータ生成の過程を読む実践を autographic visualization と呼び、データアートが証拠を構成しうると論じた。 Drucker は、解釈を図そのものに組み込むよう、可視化の規約を作り直すことを要求した。 Manovich は、データ可視化アートを、人間の知覚の尺度を超える現象を人間の尺度の表現へ写像する営み(反崇高)と定式化し、同時にその写像が恣意的になりうることを問題として指摘した。 データアートは真実から自由なわけではない。

装飾についても同じことが起きている。 Tufte は装飾(chartjunk)を排除し、データに関係しないインクを減らすことを規範とした。 Bateman らはこの規範を実験で試し、装飾のある図は理解の正確さで劣らず、2〜3週間後の記憶では有意に良かったと報告した。 装飾は必ずしも敵ではない。

違いは、読者に一つの読みを要求するかどうか

では、どこが違うのか。 実証研究と理論の両方が指している違いは、見た目ではなく、その図が読者に何を要求するかである。

可視化の定義は、目的を読者の作業に置く。 Card, Mackinlay, Shneiderman の定義は「抽象的データの、計算機に支援された対話的な視覚表現を用いて認知を増幅すること」である。 Munzner の教科書の定義は「データセットの視覚表現を提供し、人が作業をより効果的に遂行できるようにする計算機基盤のシステム」であり、人の能力を増幅する場面に適し、人を置き換えるものではないと限定する。 Mackinlay は、表現の良し悪しを「データ表のすべてが表現されているか」と「他の表現より速く解釈でき、より多くの区別を伝え、誤りが少ないか」という二つの基準に翻訳した。 可視化は、速さと正確さと誤りの少なさで測られる。

アートの側は、読みの数を変える。 Pousman, Stasko, Mateas は、情報可視化の境界事例(身の回りの表示、社会的な表示、芸術的な表示)を整理し、中心の可視化が「単一の正しい読み」を前提するのに対し、境界事例では「複数の正しい解釈」が成り立ちうると書いた。 曖昧さは欠陥ではなく、設計の余地として扱われる。

Lan らは VISAP 2013〜2023 の作品220点を分類し、データアーティスト12名にインタビューした。 作品の意図は experiment が49、inform が39、engage が36、criticize が19、witness が6だった。 インタビューでアーティストたちは、可視化との違いを「情報の伝え方が違う」といった言葉で語った。 著者らは、アーティストは客観性より主観性、個別性、曖昧さを受け入れると特徴づけている。

まとめると、可視化は読者を作業者として想定し、読み違えを失敗とする。 アートは読者を解釈者として想定し、一つの読みに収まらないことを失敗としない。 成功を測る物差しが、そもそも別である。

二択ではなく、両極のある連続体である

ただし、この違いは仕分けの基準にはならない。 両方の性質を持つ作品があるためである。

Kosara は、可視化の分類が技術的な基準に偏り、芸術的な可視化を落としてきたと指摘し、artistic visualization と pragmatic visualization を対立する二種類ではなくスペクトルとして扱うことを提案した。 Lau と Vande Moere は、情報美学を「情報可視化と visualization art の概念的連結」と定義し、両者を分けるのではなくつなぐ中間項として位置づけた。 中間があることは、研究者自身が前提にしている。

実際、Ludwig らは芸術的可視化の展覧会の企画を振り返り、そうした作品が通常はデータ可視化の会議に併設して展示され、学術イベントから独立した集団展は稀であると記録している。 展示の現場では、可視化とアートは同じ会場に並ぶ。

客観的に判別できるのか

ここからが本題である。 「これは可視化か、アートか」を外から客観的に決められるか。 学術の側の答えは、大きく三つに分かれている。

対象の性質で決まるという立場がある。 Beardsley は、美的な関心を満たす能力を持たせる意図で作られたものを芸術とした。 この立場では、判定の基準は対象の側にあり、判定者に依存しない。 ただし Stanford Encyclopedia of Philosophy の整理によれば、美的な定義は「狭すぎる」方向と「広すぎる」方向の両方で反例を受ける。 便器を持ち込んだ作品のような前衛芸術を排除してしまい、他方で車や商業デザインまで含めてしまう。

単一の基準はないという立場がある。 Weitz は、芸術という概念は開かれており、必要十分条件は原理的に固定できないと論じた。 新しい作品が現れるたびに、概念の外延は改訂を要求される。 この議論の源泉は Wittgenstein の家族的類似である。 Gaut はこれをクラスター説として整え、美的性質、感情表現、知的な挑戦、複雑な意味、独創性、高い技能といった複数の基準を挙げ、いずれも必要条件ではなく、基準の部分集合が満たされることで芸術という語が適用されるとした。 この立場では、判定は「どちらか」ではなく「どのくらい」になる。

制度が決めるという立場がある。 Danto は、知覚では区別できない物を作品たらしめるのは、芸術理論と芸術史の知識を伴う解釈であり、それを可能にする制度的な文脈だと論じた。 Dickie はこれを定義に変え、人工物であって、社会またはその下位集団が「鑑賞の候補」という地位を付与したものを芸術とする。 Davies はこの型の定義を手続き主義として整理した。 この立場でも芸術性は客観的である。 ただしその客観性は、対象の性質ではなく制度の側にある。 したがって同じ物でも、どの制度が扱うかによって答えが変わる。

実証研究は、三番目の立場を支持する方向に寄っている。 Pelowski らは 114 名に 140 枚の画像を芸術か非芸術かに分類させた。 ルネサンスやバロックの絵画であっても、全画像を芸術と判定した人は 72.6% にとどまり、全試行で「はい」と答えた人は 5.4% しかいなかった。 レディメイドの判定は 47.8%、日用品の写真は 14.9% である。 判定は対象の性質よりも、判定者が持つ信念(「絵画は自動的に芸術だ」など)と相関していた。

Hekkert と van Wieringen は、専門家34名と非専門家26名に作品を評定させ、評定者間の一致が低いこと、専門家が非専門家より一致するとは限らないことを報告している。要一次検証 Tröndle らは美術館の来館者を対象に、現代美術の芸術判定が事前知識、社会人口学的な背景、感情的経験で駆動されることを示した。 Mikalonytė と Kneer は 888 名の事前登録実験で、意図的な作成、美的価値、制度的承認という三つの特徴を操作し、いずれも単独では芸術認定に十分でないことを示した。

計算機による判別も試みられている。 Brachmann らは、畳み込みニューラルネットワークの特徴量二つだけで、伝統的な絵画と非芸術の写真を 93.0% の精度で判別した(偶然水準は 0.513)。 ただし著者ら自身が、現代美術とポストモダン美術ではこの判別が失効すると限定を付けている。 伝統的な絵画に効く手がかりは、芸術一般の定義ではない。

結論として、対象の性質だけから客観的に判別する方法は成立していない。 判定は、対象と、判定者と、その場の文脈を合わせた関数になる。

客観的に決められるのは「どちらとして扱われたか」

判別できないと述べて終わると、話が使えなくなる。 使える形に書き換える。

客観的に記録できるのは、「どちらであるか」ではなく「どちらとして扱われたか」である。 誰が、いつ、どの基準で、何として認定したかは、事実として残る。

可視化の側には、この認定の手続きが公開されている。 Reyes は、SIGGRAPH の Art Papers というプログラムの位置づけを、責任者として雑誌論文の形で説明した。 どのような基準で選ばれ、どのような位置を占めるかが記録に残る。 VISAP についても、Ludwig らがキュレーションの過程を実践報告として書いている。 審査があり、選別があり、展示がある。 アートとして扱われたという事実は、この手続きの側に蓄積される。

だから問いを立て直せる。 「これはアートか」ではなく、「これはどの制度に、何として認定されたか」である。

三つの層で見分ける

実務で使うなら、次の三層を順に問う。

要求の層:その図は読者に何を要求しているか。 数値を読み取れと要求しているか。目盛り、凡例、単位、出典があるか。読み違えたときに「間違い」と呼べるか。 ここで「はい」が並ぶなら、可視化として作られている。

意図と発表の層:何のつもりで作られ、どこに出されたか。 査読付きの可視化会議か、ギャラリーか、コンペの審査か。 Viégas と Wattenberg の定義が置いたのは、まさにこの層である。

制度の層:誰がそれを何として認定したか。 収蔵、展示、批評、助成、掲載。 Danto と Dickie が言う芸術界は、この層に実在する。

各層には弱点がある。 要求の層は、正確に読める図が作品として収蔵される場合に破れる。 意図の層は、作者の意図が外から読めず、後から語り直される場合に破れる。 制度の層は、制度が複数あって食い違う場合に破れる。 学会は可視化として扱い、美術館はアートとして扱ってよい。

したがって最終的な答えは「判別不能」ではない。 判定する制度を決めること、そしてその制度の基準を確かめることが、判別の実務になる。 会計、助成、査読、収蔵は、それぞれの手続きの中で答えを持っている。

見分けが要る場面と、要らない場面

三層の問いは、決める必要がある場面で使う。 どの予算で支払うか。何をもって成功とするか。どちらの契約で作るか。 評価の物差しが違うので、先に決めないと、正しい仕事が失敗と判定される。

鑑賞の場面では、決める必要はない。 目の前の図がどちらでも、読み方は一つに決まらない。 Lan らのインタビューに答えたアーティストたちが言うように、複数の読みが成り立つこと自体が作品の働きである。

まだ分かっていないこと

本研究の収集で確認できた空白を挙げる。

  • 可視化とデータアートを並べたときに、判定者間の一致がどうなるかを直接測った研究は見つからなかった。芸術一般の判定一致を測った研究(Pelowski ら、Hekkert と van Wieringen)はあるが、両者の対比ではない。
  • VISAP や SIGGRAPH Art Papers の審査基準と採択率は、一次資料の到達が購読壁で阻まれた。制度の層の記述は、現時点では公開された範囲にとどまる。
  • 日本語圏の美学、デザイン研究における芸術とデザインの区別の整理は、今回探索していない。

参照文献

関連ノート


書いた人:小川 修一郎(Design Researcher / Consultant) 経歴を見る →